八日、乙卯、二品(源頼朝)幷びに御台所(頼朝の妻,北条政子,1157-1225)鶴岳宮(鎌倉の鶴岡八幡宮)に御参、次を以て静(しづか。源義経の妾,静御前)女を廻廊に召出さる、是舞曲を施さしむ可きに依りてなり、此事去る比(ころ)仰せらるるの処、病痾の由を申して参らず、身に於て屑(いさぎよし)とせざるは、左右する能はずと雖も、豫州(源義経)の妾として、忽ち掲焉(けちえん)の砌(みぎり)に出づるの条、頗る恥辱の由、日来内々渋り申すと雖も、彼は既に天下の名仁なり、適(たまたま)参向して、帰洛近きに在り、其芸を見ざるは無念の由、御台所頻りに以て勧め申さしめ給ふの間、之を召さる、偏(ひとへ)に大菩薩の冥感に備ふ可きの旨仰せらると云々、近日只別緒の愁有りて、更に舞曲の業無き由、座に臨みて猶固辞す、然れども、貴命再三に及ぶの間、憖(なまじひ)に白雪の袖を廻らし、黄竹の歌を発す、左衛門尉(工藤)祐経(?-1193)鼓(つづみう)つ、是数代勇士の家に生れ、楯戟の塵を継ぐと雖も、一臈上日の職を得て、自ら歌吹の曲に携はるの故に、此役に従ふか、畠山二郎重忠(1164-1205)銅拍子(とびゃうし)たり、静先ず歌を吟じ出でて云ふ、
よし野山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそこひしき、
次に別物の曲を歌ふの後、又和歌を吟じて云ふ、
しつやしつしつのをたまきくり返し昔を今になすよしもかな、
誠に是社壇の壮観、梁塵殆んど動く可し、上下皆感興を催す、二品仰せて云ふ、八幡宮の宝前に於て、芸を施すの時、尤も関東の万歳を祝ふ可きの処、聞食(きこしめ)す所を憚らず、反逆の義経を慕ひ、別曲の歌を歌ふこと奇怪なりと云々、御台所報じ申されて云ふ、君(きみ)流人(るにん)として豆州(づしう)に坐し給ふの比、吾に芳契有りと雖も、北条殿(時政,1138-1215)時宜を怖れ、潜かに之を引籠めらる、而れども猶君に和順して、暗夜に迷ひ、深雨を凌ぎて、君の所に到る、亦石橋の戦場に出で給ふの時(1180)、独り伊豆山に残留まりて、君の存亡を知らず、日夜魄を消す、其愁を論ずれば、今の静の心の如し、豫州の多年の好(よしみ)を忘れて、恋ひ慕はざるは、貞女の姿に非ず、外に形(あら)はるるの風情を寄せ、中に動くの露胆を謝す、尤も幽玄と謂ひつ可し、枉(ま)げて賞翫し給ふ可しと云々、時に御憤を休(や)むと云々、小時(しばらく)して、御衣を簾外に押出し、之を纏頭せらると云々、 |